一宮の歴史

 No. 3 一宮町の古墳                                

   
     
長い歴史の中で、人々の暮らしに根付いた時代の証人
   

 

第1章 向山古墳群

向 山 1

向山1墳出土轡

 3基の積石塚からなる古墳群で、1991年に2基が発掘調査されました。1号墳は長径8mほどで、竪穴式の主体部をもっている珍しい古墳でした。
 主体部からは、鉄剣や馬具(轡)、勾玉やガラス製の小玉などが出土しています。後期古墳の副葬品として一般的な須恵器は、主体部から1点も出土していません。また、轡は東三河で現在判明する中で最古のものと目されており、細身の管玉や、主体部外から少数出土した須恵器の年代からも、おそらく5世紀末ころに築造された古墳と思われます。これは、ちょうど古墳時代後期の開始期にあたっています。

第2章 膳棚古墳群

 膳棚古墳群(2〜4号)

膳棚2号古墳出土須恵器

 3ブロック17基からなる古墳群で、その1ブロック中の3基が1991年に発掘調査されました。これらの古墳はいずれも至近距離にあり、特に2号墳と3号墳は外見も横穴式石室もよく似たものでしたが、例えば石室奥壁の石材の使用法や石室全体の平面形などに差が見られ、どれも2号墳が後出的な要素を備えていました。先行する3号墳は6世紀末、2号墳は7世紀前葉のものでしょう。 また4号墳は、2号噴からやや期間をおいてつくられた古墳でした。古墳全体が、地面を大きく掘り窪めた中につくられる点などが特徴で、7世紀末ころの築造と考えられます。

第3章 城山古墳群


城山6号古墳の主体部

 標高の高い尾根上などに、3ブロックに分かれて営まれたのが城山古墳群で、多くが積石塚古墳です。1991年に発掘調査された3基のうち、2基が積石塚填で1基が盛土填でした。積石塚墳の6号墳は、埋葬施設が2つ並ぶ珍しい古墳でした。現在、一宮中学校の敷地内に移築復元されています。
 盛土填であった7号墳は、墳丘の内部に大量の石材を使用していて、あたかも積石塚墳を土で覆ったような感じでした。年代的にも2基の積石塚墳よりは新しく、同一の古墳群内でありながら、変容を遂げた姿とみることも可能でしょう。
 

第4章 小金古墳群

小金古墳の葦石

小金古墳全景

 大木田面が北部で幅を狭めるあたりの、西からのびる台地上に営まれた大型円墳が小金古墳です。1992年の発掘調査の結果、直径36mの円墳で2段築成、上下2つの斜面全体に茸石を施していたことも明らかになりました。円墳としては、東三河で最大規模の古墳です。
 残念なことに、古墳の主体部はまったくその痕跡を残しておらず、本来この古墳に伴ったであろう副葬品等も皆無で、時代の違う遺物が出土したにとどまっています。ただ、古墳の形状や立地から中期の古墳であろうことはまず間違いありません。おそらく5世紀の前半代に、大きな権力がこのあたりに存在したことでしょう。

第5章 炭焼平古墳群

鳥鈕蓋付台付壷

炭焼平4号古墳の横穴石室

 1952年という早い時期に、15基もの古墳が発掘調査され、翌々年には一部の古墳が愛知県の史跡に指定されています。40基以上の古墳から構成される、愛知県を代表する後期群集墳のひとつです。群の造営期間は、6世紀の後柔から7世紀複葉までの長期に及んでいます。
 この古墳群が注目されるのは、40以上という構成墳の多さだけでなく、群中に小規模ながら前方後円墳(4号墳)を含んでいるためです。この古墳は今でも調査時の姿で残されており、墳丘の裾に巡らした石列は明瞭な前方後円形を描いています。
 このように、多数の円墳に混じって少数の前方後円墳が、同一群中に併存することから、群を造営した集団内にも格差が存在したことがわかります。同じ場所に累代の墓を営みながらも、その内部は一様ではなかったようです。

第6章 手取古墳群

手取古墳群

手取1号古墳の出土状況

 1998年、一宮町健康福祉センターの建設に先立って発掘調査された、2基からなる古墳群です。1号墳は残存状態が良好で、検出された横穴式石室の形状や出土した須恵器から、古墳の終末期に属するものだということが分かりました。
 これは、膳棚4号墳とほぼ同じ時期ですが、手取古墳群の場合は、今までに古墳が築かれていない新たな場所を選んでいることが特徴です。一方膳棚の場合は、期間をおいて同じ場所でした。この地域で営まれた最後の古墳のありかたには、大きくこの二者を認めることができます。

第7章 舟山古墳群  

舟山4号古墳の調査状況

舟山2号古墳の横穴石室

 一宮中学校の北側、「舟山」の中にある10基からなる古墳群です。前方後円墳である2号墳は早くから注目されていましたが、1995年に4号墳(円墳)が発掘調査され、大きな成果を修めました。 4号墳は中心の横穴式石室こそ大きく損なわれていましたが、これとは別に、小型の埋葬施設3基が、完全に墳丘内部に埋没して設けられていたことが明らかになりました。そのうち1基からは二次埋葬された2歳くらいの幼児の人骨が出土しました。これは、4号墳本来の主と血縁関係にあり、追葬が予定されていながらも、夭逝した者の亡骸であろうという見解があります。     

 第8章 旗頭山尾根古墳群

旗頭山尾根30号墳の調査状況

旗頭山尾根古墳群

 一宮町と新城市の境界となる旗頭山の尾根上に、連なるように分布する古墳群です。総数40のうち、24基が県の史跡に指定されていますが、滅失したものも少なくありません。
 この古墳群の最大の特徴は、積石塚古墳(類するものも含む)から構成されていることで、県下でも東三河のこの地域だけに存在する積石塚古墳の代表例ということができます。
 一部の古墳が発掘調査されていますが、その成果がよくわかっているのは、滅失した26・30・31号の3基です。時期は6世紀の後葉から7世紀にかけてと考えられ、いずれも小規模な積石塚の円墳でした。

 第9章 念仏塚古墳群

念仏塚2号古墳出土円筒埴輪

念仏塚5号古墳出土力士埴輪(豊川市蔵)

念仏塚古墳群出土人物埴輪

 一宮町の西端部、豊川市との境界にある8基ほどの古墳群ですが、現存しているのは、町の指定史跡となっている1号墳だけです。8基のうち3基が前方後円墳であったり、東三河でも稀な形象埴輪が出土している点で貴重な古墳群です。
 発掘調査は1966・67年、東名高速道路の建設工事に伴って行われました。調査された3基の古墳からは、埴輪や須恵器が出土しましたが、その須恵器は東三河で最古の一群に属するものでした。少なくとも群の造営は5世紀のうちに始まったことが確実視される古墳群です。
 またこれより先、大正年間の開墾でも多くの埴輪などが出土しています。この中には、全国的にも珍しい力士埴輪も知られており、町内だけでなく、広く注目されています。

 第10章 宮沢遺跡

宮沢遺跡の調査状況

宮沢遺跡の横穴住居跡

 支流宮出川が豊川へ注ぐ付近に広がるのが宮沢遺跡です。1988年の築堤工事に先立つ発掘調査の結果、主に古墳時代の集落跡であることが確認されました。
 前・中・後、各期の遺構や遺物が、互いに断絶期間をもって検出されました。量的には前期に属するものが主体を占めていますが、後期の7世紀と考えられる竪穴住居跡が1様ながら確認されたことは、冒頭で触れたように、古墳数に対する集落の欠如を埋める点からも注目されます。ただそれにしても、両者の圧倒的な量差が解決された訳ではありません。むしろ、古墳時代後期の集落が、前・中期と同様な場所に営まれた事例が判明したことに、ひとつの価値を求めることができるでしょう。

 

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