一宮の歴史
 
 No. 6
 中世城館と一宮町                              

   
     
時の狭間に、時代が息づく。
   

 

 城館とは、城郭や居館など、軍事性を備えた類似の施設を包括する総称です。
 平安時代末からの武士勢力の伸張にはじまって、中世は武士が政権を推進する時代となりました。
 『一遍上人絵伝』などに描かれた鎌倉時代の武士居館は、矢倉を設け板塀や堀を巡らすものの、造りは簡素で、堀の幅も比較的狭く、日常的な生活・政治の場であったことがわかります。戦闘状態など非日常の事態に際しては、臨時に「城郭」が構えられましたが、恒常的に維持管理されることはありませんでした。
 南北朝〜戦国時代になると、軍事的緊張が高まりました。彼らは山の頂や尾根上に削平地を設けて城を築き、平時の住居にも防御の固い居館を造って敵に備えました。このため、「居館」と「城郭」の明確な区別が困難なものが多くなります。
 また、武士だけでなく、寺院や村にも土塁や堀が巡らされ、当時の社会の様々な集団が防御性を重視した施設を構えました。
 愛知県内では、沓掛城や足助城、長篠城など戦国時代のものが多く知られています。これらは公園や地域のシンボルとして親しまれるだけではありません。保護され調査の対象となる埋蔵文化財包蔵地でもあるのです。県内の城館跡は『愛知県中世城館調査報告』で詳報されていますが、一宮町内においても、およそ年代の特定できる城館跡はすべて戦国時代のものとなっています。
 
15世紀後半、一宮町周辺では山家三方衆(作手奥平・田峯菅沼・長篠菅沼)や牧野氏らが、新興の在地領主(国衆)としてあらわれました。彼らは16世紀前半には今川氏に服属していましたが、桶狭間合戦(1500)以後、状況は一変します。西郷正勝・菅沼完勝・菅沼定盈といった諸将が今川の手を離れ、松平元康(家康)が残る今川勢力を一掃して、この地域は家康の制するところとなりました。この後、三遠における武田氏との死闘の過程で、彼らは完全に徳川軍団に編成されていきました。
 地域の城館跡の存在を調べる際に参考になるのが絵図や地籍図、文献史料などです。
 近世に城館跡を描いた古絵図からは、城館全体の縄張り(平面構成)を知ることができます。地籍図や地名などからは、すでに失われてしまった遺構や歴史的景観の復元を試みることができます。
 文献史料には、@城館が機能していた時期に「発給された文書」や「記録」、A同時代に生きた人物が後にまとめた「編纂物」、B近世(戸時代)に作成・記録された「地誌」や「家譜」などがあります。一次史料である@は正確性が高く、二次史料であるBは内容を鵜呑みにはできないものの、量的に整理された城館跡の情報を得ることができます。現在知られる城館跡の名称はそのほとんどが「近世の地誌」によるものです。
 一宮町の城館跡を知る手がかりとして、主に以下のような史料があります。
  
@同時代人の発給文書
 松平元康や今川氏真などが発給した「感状」や「所
 領安堵状」など。
A同時代の編纂物(17世紀初めまでに成立)
  『松平記』
 撰者不明。慶長年問頃成立か。守山くずれから築山夫人
 の自害までを記す。
  『三河物語』
 大久保彦左衛門忠教の著。寛永3年(1626)の成立か。
B近世の地誌
  『三河国二葉松』
 佐野知堯の撰。元文5年(1740)の成立。
  『三河国古今城塁地理志』
 渡辺富秋の著。江戸後期の成立。
 
 近世の家譜
  『菅沼家譜(定盈伝)』
 新城菅沼の初代、定実によって修史編纂。
  『武徳編年集成』
 木村高敦の編纂。家康の伝記。元文5年(1740)の成立。
  『寛政重修諸家譜』
 林述斎ほかの編纂。文化9年(1812)の成立。
  『徳川実紀』
 林述斎監修。天保14年(1843)の成立。家康から家治まで
 の治績を編纂。

 

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