一宮の歴史

 No. 7 一宮町内の城館跡                             

   
     
すべて、時代のうねりに消えていった。
   

 

第1章 足山田城


足山田城跡遠景

 城山と呼ばれる尾根上にあって、土塁や堀などの遺構が残ります。昭和57年(1982)には測量調査が行われ、その略測図が公表されています。年代の特定は困難ですが、元亀・天正の頃(1570−1591)のものとも推定されています。
『三河国二葉松』には「足山田村古城 秋山新九郎」、『三河国古今城塁地理志』には「足山田村屋敷
 秋山新九郎」と記され、共に城主は秋山新九郎と伝えます。『三河国宝飯郡誌』では「城主秋山新九郎ハ武田氏ノ臣下ナリ」としています。
 また、城跡の東方およそ
1kmの所に「六郎辻」という地名が残っています。これは足山田城にいたという秋山六郎の名に因んだものです。武田方の城であった足山田城は、信玄が野田城で負傷して甲州へ向かうと、家康に攻略され陥落しました。新九郎の家臣だった六郎だけが生き残り、長山村に逃れ住むこととなりました。地元の人々は「城山くずれ」と呼びましたが、やがて打ち解け、長篠合戦の時まで過ごしました。後世、村人らは彼を偲んで墓を建てて供養し、大正8年(
1919)には墓前に「烈士秋山六郎の碑」がつくられました。

第2章 西原居館

 

 近世の地誌にも記載がありませんが、成徳寺境内周辺に土塁と堀が残ります。地籍図にも現況の遺構と一致し居館を区画すると思われる地割が残ります。慶長9年(1604)の『三州宝飯郡之内西原村御検地帳』には「ほりノ内 上田四反八畝四分 三郎左衛門作」と記載され、「堀ノ内」の呼称をみることができます。城館関係地名とも考えられますが、居館跡との積極的な関係は明らかではありません。

第3章 松平居舘

 僅かながらも土塁の一部が残存しています。『郡誌』には「田圃ノ中央ニ古姿ヲ存シ、郭内ハ畑トナリ、堀ハ田トナリ、僅ニ東北ニ長二十問許ノ土塁ヲ存スルノミ」と記されます。
 居館跡周辺は通称「木戸」と呼ばれ、城門施設を思わせます。旧字に「城屋敷」「城前」「城跡」「城堀」などの名称があったとも言われ(『郡誌』)、現在も付近には「上屋敷」「番匠田」という地名が残ります。城館関係地名とも考えられますが、居館跡との積極的な関係を示すには至っていません。地籍図でも居館の区画と思われる地割をみることができます。『二葉』には「篠田村古屋鋪 松平兵庫介是ハ長澤上野介舎弟也新城家中今泉四郎兵衛力母方祖也五代也天正十五丁亥十一月大木村天王社棟札在之」、『城塁』には「篠田村屋敷 松平兵庫」と記されています。この松平兵庫介については長沢の松平康忠の弟良清であると考えられます。『長沢松平家譜』によると、
8代上野介康忠は、永禄5年(1562)8月5日に宝飯郡内に松平元康から領地を賜っており、篠田西原三拾貫文や、篠田之郷弐百貫文も長沢松平の領地となっています。『三高院什物 長沢家畧系』によると、康忠の弟に兵庫介良清という者がいたことがわかります。『寛政重修諸家譜』にも教山という法蔵寺の住職になった弟のほかに某兵庫介という者がいたことが記されています。長沢松平の領地支配のため、弟の良清が松平居館に入ったと考えるのが自然でしょう。
 また、『二葉』に記された天正
15年(1578)の大木進雄神社の棟札には「願主時之地頭松平兵庫助並家職源造殿」とあります。

第4章 一宮砦

一宮砦

 豊川の流れを望む段丘端の崖上に位置し、主郭を囲む土塁や堀をみることができます。特に虎口の形状は良好に保存され、防御性の高い内枡形と呼ばれる構造です。外郭は滅失していますが、浅野文庫所蔵『諸国古城之図』に「三河一宮」としてその絵図が掲録されており、原形をうかがい知ることができます。絵図は幾分デフォルメされていますが、曲輪の配置や虎口の位置などについては注意深く描かれており、内枡形の様子も現況と一致しています。明治18年(1885)までに作成された地籍図には主郭及びその枡形の形状が明瞭に表れています。外郭部分についても地割の乱れからその区画を描き出すことができそうです。
 『二葉』には「一ノ宮村砦 本多百助信俊同名隼人佐弟也」、『城塁』には「一ノ宮砦 本多百助(永禄中)今は神主屋敷となる」と記されます。守将本多百助信俊は松平方の武将で、この砦は永禄年間(
1558〜1569)半ばに元康の東三河進出の戦略拠点となりました。元康がこの砦の窮地を赴接したエピソードは有名です。そのため、多くの文献でその名が確認でき、部分的とはいえ直接間接の情報でその具体的なありさまを知ることのできる貴重な城館といえます。
 砦の構築年代・存続期間は不明ですが、天正
3年(1575
)、長篠に向けて進軍する織田勢の先手が一宮に一時着降したとの記録(「信長御出有て、先手之衆ハ、はや八幡・市之宮・本野が原に陣をとれバ、上之助殿ハ岡崎へ付かせ給ヘバ、信長ハ地理鮒へ付かせ給ふ。」『三河物語』)があることから、砦の機能もこの頃までは存続していたとも考えられます。

第5章 本宮長山城

 稲荷小祠の裏手に堀跡がわずかに残ります。
『二葉』こは「長山村本宮山麓古城 城主不知」、「城塁』には「本宮ノ長山村 主は末考」と記されます。

第6章 鑓殿城



鑓殿城跡遠景

 『二葉』には「ヤリ手山卜云所 東上村勝川古城 城主不知」と記されます。『一宮町誌』などでは鎗殿城と勝川城は別の城として併記されています。また、勝川城を鎗殿城の居館部とみなす考え方もありますが、『二葉』の記述から鎗殿城と勝川城を別の存在として積極的に見出すことはできないように思われます。

第7章 所在不明の城館

「近世の地誌」に記載され、存在が知られるものの、その所在すらはっきりとしない城館もあります。
松原城 ※一宮町大字松原周辺か「松原村古城 城主不知」(『二葉』)
井島屋敷 ※一宮町大字豊津の旧井之嶋村周辺か「井島屋布 主は未考」(『城塁』)
日下部城 ※一宮町大字豊津の旧日下部村周辺か「日下部村古城 城主不知」(『二葉』)
養父村屋敷
 ※一宮町大字金沢の旧養父村周辺か「養父村屋布 冨安十郎太夫 今泉氏」(『城塁』) 

 

                                                                        ■歴史散策トップ  

Copyright (C) 2005, miyagon All Rights Reserved.   参考文献:一宮の中世城館
本ページ内に掲載の記事・写真などの一切の無断転載を禁じます