一宮の歴史

 No. 8 
松平元 康 の一宮砦赴援                         

   
     
すべて、時代のうねりに消えていった。
   

 

第1章 松平元 康 の一宮砦赴援



「三河一宮」
浅井文庫蔵「諸国古城之図」

 桶狭間の戦い(1560)以後、岡崎に戻った松平元康は、三河制圧に向けた第一歩を踏み出し、西三河の各地を転戦しはじめました。このため、今川氏との関係は深刻な状況へと悪化し、以後、「三州錯乱」「三州過半の錯乱」などと呼ばれるほど今川・松平間での三河攻防が激しくなりました。西三河を平定し、清洲同盟・妻子奪還を果たした元康はいよいよ東三河に残る強力な今川勢力(吉田・牛久保・田原)の攻略を開始します。
 早くも永禄
5年(1562)6月には牛久保城をめぐって大規模な戦闘が起こつています。今川勢は吉田城・牛久保城の拠点に加え、佐脇と八幡に砦を構えました。さらに今川氏真自ら兵を率いて駿河から牛久保に着陣し、松平勢の守る一宮砦を大軍で包囲します。これに対し元康は佐脇・八幡の敵勢の間に押し出して、小勢で今川の攻囲を突破し、孤立した本多信俊らの一宮砦を赴接しました。これは家康の武勇談の一つとして「一宮の後詰」「一票の退口」などと呼ばれています。氏真は駿府滞在中の武田信虎に謀反の企てありとする情報で、元康と直接戦うことなく兵を返したといわれます。
 この戦闘については、細部で諸書の記述に違いがみられます。時期を永禄
5年とし、信虎は駿府に滞在していたとする『松平記』に対して、時期を永禄7
年とするもの(『≡河物語い『寛政重修諸家譜(本多信俊)』・『徳川実紀』)や、信虎も今川方の一軍を率いて参戦していたとするもの(『菅沼豪語』・『寛政重修諸家譜(本多信俊)』・『徳川実紀』)などがあります。

第2章 給文書 「今川氏真感状」

 

(『本光寺所蔵島原田嶋家文書』)
田嶋新左衛門尉は、吉田の小原鎮実の配下で、被官七間を有し、拾五貫七百文を受けていました。三州錯乱時に田嶋は今川方に属して活動し、嵩山市場口長澤・一宮端城,(一宮砦)での功績に対して氏貴から感状が出ています。

第3章 纂物 『松平記』

 永祿五年六月岡崎衆牛久保牧野新二郎・同出羽守を責らる、。吉田城主大原肥前守を責らる、佐脇の八幡に取手をとりて、板倉弾正・同主水・三浦左馬助を駿河方より籠置、吉田・牛久保を根城とし、氏真三河へ神馬を被出、駿河衆一万余騎牛久保に張陣有処に、一の宮取手に家康衆五六百にて籠る間、氏真千金の人数にて被攻、端城ニッ攻落すと聞えしかば、家康三千の人数にて一宮の後詰に出られ、佐脇の八幡の間に出張し給ふ。此時駿河にて武田信虎逆心を起し、駿河をとらんとの謀有よし聞え、駿河衆悉さはぎ、岡崎衆と合戦なるべきやうなし。家康は駿河衆先手と旗本の間を押やぶり合戦を初め、先手衆を追払、籠城の岡崎泉本多百助を初皆突て出で、合戦し、利を得て引とる。一万あまりの駿河衆、三千の岡崎衆をくひとおる事難叶は、家康無双の高名也。

第4章 纂物 『三河物藷』

 其より思召置無事取合給ふて、牛久保・吉田え御發葵有て、度々のせり合に、各々骨見ヲ砕クなり。早長沢之城ヲモ取て、吉田・牛久保にアタリて、一ノ宮に取出ヲ取給ふ。駿河よりモ佐脇卜八幡に取出ヲ取て、吉田・牛久保ヲ根城にスル。
 然処に、氏真ハ、駿河・遠江之人数ヲ催シて、旗本ハ牛久保に一万計にて有。一野宮ヲ五千余にて請ヲ、三千之内外にて後詰ヲ被成ケリ。
「氏真、男ナラバ出て陣ヲスベシ」卜て、人数三千計にて、八幡卜佐脇之間え押出サせ絵ふ。
本野ガ原え出て、氏真之所ヲ押通シ給ひて、市之宮責ケル者共ヲ押除て、其夜は取出に御陣取給ひ、明ケレバ、本之道に出サせ給ひて通ラせ給え共、氏真出絵ふ事弄。「市之宮之野キロ」ト中て、三河にて定スルハ是なり
 

第5章 家譜 『菅沼家譜(定盈伝)』

 今川氏真武田信虎ヲ伴ヒ三州一之宮城被攻本多百助信xヲ家康公ハ白レ岡崎御出馬ナリ此時定盈ハ西郷清員ヲ伴ヒ賀茂通り照山ヲ行ク敵勝山ノ近所マテ出向フ両家ノ士卒相戦フ、敵失テレ利敗北ス、定盈ハ佐原平蔵楽ノ筒二住ス清員ハ、大泉助次郎相随テ行ク敵四、五人襲レ之不レ残撃取之此時山家三方ハ松原ノ方ヨリ掛ル、麻生田へ出向フ敵ヲ追散ス此時田峰菅沼小法師家臣菅沼十郎兵衛号信濃守定道合スレ鑓ヲ

第6章 家譜 『寛政重修諸家譜』

           第11(本多信俊の項)
 六年今川氏眞と御合戦ありて三河國一宮の城をせめとりたまふのとき、信俊おほせをうけたよはりて其城を守る。是年一向門徒一揆のとき、しばしば忠戰を励し、明大寺にをいて合戦のとき、敵数人を射殪す。七年氏眞一万八千の兵をひきゐて一宮の城を襲ふ。このとき武田信虎氏眞が許に在しかば、先鋒となりて来り攻。信俊ふせぎた々かふといへども已にあやうかりしとき、東照宮三千の兵をひきゐて本能原を経て御發向あり。今川勢その鋒のあたりがたからむことを恐れ、圍を解てひき退く。すでに一宮の城にわたらせたまか、御歸陣に及びて信俊御供に列し、殿となる。
ときに信虎八千の兵をひきゐてしたひきたる。
榊原隼之助忠政味方をはなれて相た々かひ、敵に圍れほとんどあやうし。信俊おほせによりてはせかへり、敵數人を射ころす。これにより忠政命を全することを得たり。よた東照宮も御馬をかへしたまふ。信俊忠政とおなじくはせめぐりて奮ひた々かふ。敵兵つゐに敗北す。

第7章 家譜 『徳川実紀』

一宮砦跡主郭内枡形

                 (東照宮御実紀)
その中に一宮の砦は本多百助信俊五百ばかりの兵をもってまもりけるに。氏眞吉田を救はむがため。ニ萬の軍をもってこの寨をせめかこむ。
 君かくと聞召。三千の人數にて一宮の後詰したまはむとて出馬したまふ。老臣等是をみて。
敵の人數は味方に十倍し。その上後詰を防がせむとで武田信虎備たり。かたがた御深慮ましましてしかるべしと諌けれど。 君は家人に敵地の番をさせて置ながら。敵よせ来ると聞て救はざらんには。信も義もなきといふものなり。萬一後詰をしそんじ討死せんも天命なり。敵の大軍も小勢もいふべき所にあらずとて。もみにもんで打立せ給ひ。信虎が八千の備をけちらして。一宮の寨に入給ふに。今川が軍勢道を開て手を出すものなし。その夜は一宮に一宿ましまし。翌朝信俊を召し具せられ。將卒一人も毀傷なく。敵勢を追立々々難なく岡崎城へ歸らせ給ふ。此を一の宮の後詰とて 天下後せまで其御英武を感歎する所なり。

 

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